2015年08月20日

【読了30】日本語教育学のデザイン

嬉しいことにご献本いただいたので、読んでみました。
以下、備忘録的に。



本書は、“日本語教育学を考える際に、そもそも踏まえていなければならないことは何かという問題意識から、日本語教育学の体系化をめざすにあたって参照する「地図」を作成すること”をめざした、とあります(はじめにB,C)。

...読み終えた今、僕の頭の中に「地図」らしきものはありません。
...ごめんなさい。
...力量不足です。

やっぱり僕は、文より「図」であわらしていただいたほうが理解できるタイプのようです。
とゆーわけで、本書の中から目に止まった部分を拾って、マーキングしておきます。
全部は多すぎるから、そのうちいくつかを。

第1部 第1章
・私たちが考えなければならなのは、日本語教育学を専門としない一般の人々が、素朴に疑問に思うことについて、専門家も素朴な経験に基づく知見しか提供できていないという現実です。(p.19)
→絶句。これ、アカンやん。なんでだろ。たぶん、一般の人々が素朴に疑問に思うことを、専門家が無視しているか、気付いても興味をもたないか、興味はもってもそれ以外のことに注力しているか、ですかね。専門家は疑問に思わない、ってこともあるかもしれませんが、いずれにしても、きちんと答えられないと、一般の人々のほうから無視されるか、興味をもたれなくなるか、ですね。寂しいけど。

第1部 第2章
・(日本語教育は)その課題を解決することばかりに熱中し、課題そのものがなぜ課題として目の前に立ち現れてくるのかという本質的な問題を考えずにここまで来た(p.28)
→考えてはきたし、どうにかしたいと思っていろいろやってみたけど、結局はどうしたらいいのかわからないままだし、最後までやり抜こうとはせず、目前の課題解決に追われたり、(一時的に)逃げたり、他のところに興味関心を移したりしてるんじゃないかと思っています。「法制化」は、どーなった?

・筆者にとっての日本語教育は、日本語を使うことで社会と関わろうとする人・社会と共に生きようとする人、そういう「社会的な人」を対象とする学問であり、実践となったのです。(p.43)
・「ことばを使って社会で生きていく強制能力を引き出し、伸ばし、身につける機会を提供し、その学びを支援していくこと」こそが日本語教育であると考えています。(p.45)
→とても共感します。そういう理念のもとに、どういう実践を積み重ね広げられるかが重要ですね。

第3部 02
・教室の中では決められた項目を手際よくこなすことがいい教師であるという評価を受け、そういう教師にかぎって、学習者に対して「社会に出て困る」とか「みんなと一緒にやっていけない」などと言う。しかし、この「社会」や「みんな」は、すべてその人の持つイメージにすぎないにもかかわらず、自分の中で勝手に描いたイメージを他者に当てはめて要らざる心配をする。これは、他者である個人の自由の侵害以外の何者でもない。(中略)なぜこのような個人の自由侵害がやすやすと行われるのか。それは、ことばを教えるという仕事が1つの技術になっていて、ことばと人間あるいは社会との関係について考えることがことばの教師の人生においてすっぽりと抜け落ちているからだろう。(p.175)
→同意します。でもこれってずいぶん前から思っていて、それが改善されないのは、大学や民間の日本語教師養成講座でこういうことが扱われないからなんじゃないかと思います。そして、そうやって育てられた日本語教師が、ボランティアの養成講座なんかに呼ばれて、当然、このことをプログラムに入れたりしない。研修依頼元の自治体や国際交流協会も「技術」にばかり注目しているから、依頼内容に含むことがない。結局は、だれも「ことばと社会との関係」なんてじっくり考えたり議論したりしないまま、日本語教育が行われているんだと思います。

第3部 04
・過去30年余りの日本語教育では、ニーズ分析とそれに基づく教育開発にばかり忙しく、教育目標自体の見方の革新や専門的な見地からの(カリキュラムの作成、リソースの作成、コーディネーションの下での教育の実施、評価の)革新や工夫ということが疎かになっていたと思います。(中略)現在の日本語教育はなんのパラダイムもない「根無し草」です。(p.179)
→なんかもう、ダメダメですね。。。自虐本ですか、コレ?(苦笑)

第3部 09
・いい直しやいい淀みなどの非流暢な振る舞いは書くことのできないものとなっている。それは聞き手に対する配慮や優しさであると同時に、一緒に発話を作り上げていくプロセス、あるいは聞き手との関係を構築するための手段でもあるのだろう。そのプロセスを経て、はじめて人との関わりに参加できることになるのだ。(p.189)
→そうか!そうだ!いやー、これは良い視点を得た。コミュニケーションがスムーズになると、“人との関わりに参加する”ということに費やすエネルギーが減って、参加によって生み出される<コンテンツ>のほうに注目してしまいがち。コミュニケーションそのものに労力がかかるってゆーのは、とっても大事なことなんですね。

第3部 12
・「やさしい日本語」は、「特殊な日本語」なのでしょうか。「ふつうの日本語」というものがあって、「日本語が不自由な人のための」「おもいやり」として、「やさしい日本語」というものを用意しようということなのでしょうか。そうではないはずです。わたしにとって、やさしい日本語とは、「これまでの日本語」を問いなおす言語実践であり、「これからの日本語」を構想するためのものです。(中略)ことばのバリアフリーに必要なのは、情報を多言語化していくと同時に、日本語をバリアフリーにしていくことです。(p.195)
→そうだなぁ、そうだよなぁ、そういう捉え方で「やさしい日本語」を日常に取り入れていってほしいよなぁ。と、思う一方で、それを個人の意識を超えて、大きな枠組みで考えるってことは、「国語」や「国語教育」を変えるってことにもなるんだろうから、口にする場を考えないと、ひかれちゃうだろうな。

第3部 20
・「いかにわかりやすくするか」の発想から、「いかにおもしろくするか」の発想へー。(p.211)
→なるほど。わかりやすさは、相手を受け身にさせる。おもしろさは、自ら理解しようと能動的にさせる。なるほど。これ大事。この発想を、実践に取り入れよう。

第3部 23
・実践者である教師が、日本語教育と絡めているその分野について、あまりに基本的なことを知らない(p.216)
→反省。僕も、紙媒体での<通信講座>について、ほとんど勉強してない。早速、論文ググってみたけど、ほとんど出てこない。eラーニングばっか。こりゃもうちょっとしっかり調べないと。

第3部 24
・インターネット上の世界には他業種はおろか、国境の制約さえもない。そして、ときも場所も選ばずに授業することができる。(p.218)
→ネットに限る必要はないけど、ときも場所も選ばずに学習ができる環境を創っていきたい。そのときはきっと、受講料も不要になってると思う。

第3部 25
・「生きる力」は「言葉の力」に裏打ちされているという考え方に、私は賛成します。ただし、その「言葉の力」は、「他者を支配するための力」ではなく、「他者と共に生きるための力」でなくてはならない、と思うのです。(中略)「知」と教育の現場をつなぐ役割が、「出版」にはあります。(p.220)
→共感します。最後の一文には、なるほど、そんな役割があるって考えたことなかったけど、たしかに。でも、役割としてはあるんだけど、現場の人、年間どれくらい専門書や論文を読んでるんでしょう?読まれなければ、なかったとほぼ同じですもんね。そーゆー意味では、出版記念イベントの第2弾、第3弾に期待しています。

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とゆーことで、どんどん自分のハードルを上げてしまいました。
上記をふまえて、しばらく考えます。
あー困った。どーしーよー。
posted by 土井佳彦(Yoshihiko DOI) at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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